『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人の共著)を読んで・・・・・・【要約】になっていませんがその4

第3章 資本主義の根源へ
●資本主義は市場経済とイコールではない

(以下、文意を変えずにほぼ抜粋)
萱野「もし世界資本主義におけるヘゲモニーが一国単位で形成されなくなるのであれば、世界のかたちは今後、国民国家を単位にした国際秩序ではなくなっていくでしょう。
 ただしここで注意しておきたいのは、その脱国民国家化の流れはけっして国家そのものがなくなるということではありません。資本主義が国民国家の枠組みに基づかなくなるということと、資本主義が国家そのものを必要としなくなるということとは、まったく別のことがらです」
水野「私は『国家と資本が離婚する』という言い方をしばしばしますが、そこで意味されているのは、資本の活動がもはや一国の国民経済を豊かにする方向にはむかわないということ。生産拠点が新興国へとどんどん移転され、そこが資本主義の場所になると、先進国の資本は高いリターンをもとめてそうした新興国へと向かうことになります。そうなると、これまでの先進国の住民は資本から見放され、仕事がなくなり、必然的に貧窮化しますよね。資本が国民経済という枠組みから完全に解放されるということ。ただしそれはけっして資本が国家を必要としなくなるということではありません」
萱野「私がなぜ『国家』の問題にこだわるのか。それは資本主義を市場経済と同一視するような見方が日本ではとても強いから。逆にいうと、資本と国家は対立するものだという前提に多くの人がたっている。新古典派の経済学者やエコノミストたちはだいたいそうです。
 こうした見方は、私のいる人文思想の世界でも根強い。とくに1990年代の日本の思想界では、グローバリゼーションによって国境の壁がどんどん低くなり、国家も次第に消滅していくだろう、ということが盛んに言われました。当時はなぜか『国家を超える』ということが思想界での最大のテーマになっていて、その文脈でグローバリゼーションがやたらと称揚されたりもしました。私が国家とは何かということを理論的に考えるようになったのは、こうした安易な『国家廃絶論』に辟易したからでもあります。国家とは何かを考えもせずに、安易に『国家の廃絶』とか言わないで欲しい」
水野「国民国家と国家そのものを取り違えてしまったんですね」
萱野「そうです。ちょうど90年代というのは、アメリカが自らの金融的なヘゲモニーを拡大するために、各国に対して規制緩和や民営化をせまっていた時期。各国の市場を開放させ、そこにアメリカの資本が入っていきます。自由市場のスローガンというのは、いわばそのときのアメリカの方便でした。その方便を、日本の思想界は真に受けてしまった(注1) アメリカの国益に裏づけられたものを、あたかも国家そのものを否定するものとして受け取ってしまった。
こうした安易な国家廃絶論は、なんでも民営化していくべきだと考える市場原理主義者たちに典型的にみられるものですが、同時に、国家権力を批判しようとする左派やアナーキストたちにもしばしば見られます。アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)なんてその典型ですね。両社に共通しているのは、資本主義市場は国家とは独立に存在しているという観念であり、資本主義がもっと発達していけば国家は消滅するだろうという想定です」
水野「なるほど。思想界では、資本主義を国家と対立するシステムとしてとらえてしまうような論議がかなりあったんですね
私の言葉でいえば、アメリカの金融支配は『帝国化』ということになるのですが、『帝国』だって国家であることに変わりありません。国際政治学者のマイケル・ドイルの定義によれば、国民国家も『帝国』になりうるのですから、それはけっして国家がなくなるということではありません。
そもそも資本主義の歴史を辿れば、必ず覇権国の存在があります。1990年代には、国際資本の完全移動性が実現されて、資本は国境をやすやすと越えていくようになりましたが、それ自体、アメリカが金融帝国化するための戦略だったということです」
萱野「そうなんですよね。資本主義が市場経済と同一視されると、そこはフラットな自由交易の世界であるかのようにとらえてしまうんですが、実際のところは、イラク戦争がドル基軸通貨体制を防衛する為の戦争だったように、市場のフレームそのものは国家のもとでの力関係によって決定されている」
萱野「その通りだと思います」
水野「たとえば思想の世界でいうと、経済学者の岩井克人さんや批評家の柄谷行人さんが市場と資本主義を同一視する論者の代表格です。岩井さんは『ヴェニスの商人資本論』のなかで、商人たちによる遠隔地貿易が資本主義をもたらしたんだということを述べています。つまり、遠隔地で商品を買ってきてこちらで売れば、むこうとこちらでは価値体系が異なるので、その差異によって利潤がうみだされる、その利潤が資本となるのだ、と。
資本主義の原型は複数の価値体系のあいだでのフラットな交易にある、という認識ですね。同じように柄谷さんも、資本主義の原理は異なる価値体系のあいだでの交換にあると考えています。
 彼らの議論は、90年代から2000年代前半ぐらいまで、思想系の論壇やアカデミズムでとても大きな影響力をもちました。でも、資本主義を市場における交換へと還元するような認識はそろそろ見直されなくてはなりません。
水野「交易条件ひとつをとっても、そこには市場には還元できない力が働いています。私たちの議論はそうした認識の見直しにもつながっているわけですね」
萱野「そうなんです。ですので、ここでは資本主義と国家の関係をすこし理論的に考えてみたいと思います。
 ここまでの議論からもわかるように、資本主義はけっしてたんなる市場経済として成立してきたのではありません。資本主義は長いあいだ、先進国が軍事力を背景に有利な交易条件を確立しつづけることで成立してきました。そこでは覇権国が平滑空間を創出して、対等な交換というには程遠いやり方で富を獲得してきた。この意味で、資本蓄積の原理というのは交換よりも略奪に近い。1970年代以降の金融経済の動きだって、けっして市場の力だけでなされたものではありません。それはアメリカと言う国家のヘゲモニーをつうじて、そのヘゲモニーを維持するために、なされてきたものです。資本主義はけっして市場経済とイコールではなく、そこには国家の存在が深く組み込まれている。」

(抜粋、ここまで)

このあと、この章では「近代の資本主義社会がどのようにそれまでの封建制社会から成立してきたのか」を欧米、主に欧州の古代専制国家まで遡り、略奪という経済活動や、政治的主体と経済的主体がかつては一致していたが今では役割分担されていること、利子率革命(注2)
、“16世紀のグローバル化と現代のグローバル化の相同性”(注3)に言及し、“資本主義はけっして市場経済とイコールではなく、そこには国家の存在が深く組み込まれている”ことを論じている。


(注1)孫崎享『日米同盟の正体』にもこうした米国の戦略が「シーレーン構想」という具体例をあげ、記されている。
(注2)<以下130〜131頁にある水野氏の言>利子率革命とは、中世になってつづいていた高金利が、16世紀末から17世紀にかけてヨーロッパ全域で急落した現象のこと。これにより中世の封建制・荘園制が崩壊し、資本主義経済への転換が起きた。
(注3)ドイツの社会学ノルベルト・エリアスが「封建的な政治単位が近代においてもっと広い単位へと統合されていった要因は2つあり、1つは貨幣経済の広がり、もう1つは軍事技術の発達」と言ったことに触れ、本書では貨幣経済の広がりと軍事技術の発達にも言及している。

                                                                                                                                                                                              • -

まとめようと思ったけど、今回は無理でした。というか第3章は最初の6ページがまとめになっていて、7ページ目以降は“詳細”という構造なので、素直に抜粋。
第1章、第2章も対談がまとまっていた感じのものなので、十分まとまっていて、それを更に要約というのは厳しかった。
そもそも本書は、新書で出す内容じゃないと思う。でも、分厚いハードカバーの本って敷居が高いから、敷居を下げ、そして“この大局的視座が広まりますように”という願いが込められ、新書のかたちで出てる気がする。水野さんは、今や内閣府官房審議官なので忙しいという理由もあるかもしれないけど。

気になった方は、素直に↓からポチっと購入して読まれるといいと思います。



おかしな点がありましたら、ご指摘の程よろしくお願いします。